角質乙女細動

ほぼ100%

「良かった。病気の子供はいないんだ。」って言うな

結論:「良かった。病気の子供はいないんだ。」って言うな

「病気の子供はいないんだ」論法の蔓延

嘘。

デマ。

創作実話

ネットには嘘があふれています。特にSNS、その中でもとりわけツイッターは虚偽の宝庫であり、大ボラ吹きたちのオリンピックが4秒ごとに開催されている無法地帯です。

イーロン体制以後に悪化したと訴える人もいますが、自分の印象ではさほど大きな差があるようには見えません。嘘情報の多さに関しては、以前から大体こんなものだったのではないでしょうか。

さて、そんな嘘つきのパラダイスであるツイッターですが、時には正気に返った人々によって、本当に?という素朴な疑問が発せられることがあります。

そして更にその内の何百分の一かのケースでは、これはさすがにちょっと怪しいんじゃないか?という声の方が大きくなることもなくはないです。

ごく稀にそういう流れになった時に、主にそれまで元情報を鵜呑みにしていた人々からしばしば出てくるのが、

「良かった。病気の子供はいないんだ。」

という言葉です。

実際には、「病気」「子供」は問題になっているエピソードの内容に合わせて置き換えられて、

「たとえ嘘だったとしてもそれならそれで『良かった。××の〇〇(何らかの被害者)はいないんだ。』で済む話じゃないか」

のような形で用いられていることが多いようです。*1



この言葉の直接の元ネタは、「ジョニー・ウォーカー 黒ラベル」の1998年のCM。*2


S:この町には、ふたつのタイプの人がいる。
S:嘘をつく人と、つかれる人。

男A:よぉ、だまされたな。
今の人、病気の子供がいるって言ってただろ、
ありゃ、嘘なんだ。

S:すると友人は、微笑んだ。

男B:…良かった。
病気の子供はいないんだ。

(冒頭で男Bは女に金を与えている)

とてもいいお話ですね。

ですが、これを現実のネット(ツイッター)での「嘘」の取り扱いに応用するには、大きな問題があると思われます。非常にダメダメです。


「病気の子供はいないんだ」論法の問題

何がそんなにダメなのか。元ネタのCMと実際に比較してみればすぐに分かります。

分かりましたね?

そう、我々は神保悟志ではないからです。







違いました。



元CMのストーリーでは、「嘘をつく人」=女と、「嘘をつかれる人」=男Bの関係は、二人だけの間でほぼ完結しています。

見え透いた嘘に騙されてどれだけの金銭を失ったのだとしても(10ドル?札でけっこうな厚みの束に見える)、それは純粋に男B個人の失敗でしかありません。

だからこそ、本人が納得さえしているのなら、「病気の子供はいないんだ」のひとことで水に流すことも許されるわけです。愚行権の範疇と言ってもいいでしょう。*3

これはまた、90年代という、インターネットも未発達で社会にまだ色んな意味で余裕があった(緩かった)時代だからこそ成立した寓話であるとも言えるかもしれません。



しかるに、企業のネットが星を被う(しかし国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない)2024年のせちがらい現実世界を生きる我々はどうでしょうか。

言わずもがなですが、ネットの特徴はその双方向性にあります。情報の受け手は同時に送り手でもあるということです。

SNSツイッターで、私たちが創作実話などの「嘘」に引っかかった場合。そこではほぼ必ず、RTや引用RTやリプライなどの二次的な情報発信を伴うことになります。*4

そして、二次的発信は三次的発信を生み、三次的発信は四次的発信を……という具合に、反応は無限に連鎖していきます。

こうして、無批判な言及が爆発的に増えていくことにより、ネット全体で、元情報が事実であるという認識が強化されることになるのです。

この一般的な構図を見るだけで、ネットでは騙される人が純粋な被害者ではありえないことが分かるでしょう。それは嘘つきの実質的な協力者であり、むしろ加害者の側にいるといってもいいぐらいです。



たとえ嘘をバラまくことになったとしても、元CMのように金を取られているわけでもないし、誰にも実害はないんだからそんな目くじら立てなくてもいいじゃないか、という反論があるかもしれません。

個人的な意見ですが、絶対にそんなことはありません。

事実の価値が棄損されることは、それ自体が社会全体にとって大きな問題であると私は考えます。

ポスト・トゥルース

世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会。

ポスト・トゥルース時代では、これまで以上にメディアリテラシー(情報の真偽を見抜く力)が強く求められるという意見があるが、一方では、事実か虚偽かは重要ではない、虚偽であっても自分に好都合の情報ならそれで良い、などといった風潮が拡大しているという指摘もある。

「病気の子供」はいなくても責任は残る

最近の風潮として、「いい人」「素直」であることの価値が(不自然なまでに)上昇しており、他人への指摘や批判は全般的に敬遠される傾向にあります。こういう状況では、誰かの言うことが多少疑わしかろうと、表向きは信じて乗っかってみせる方が低リスクな選択として採用されるのも、ある程度は仕方のないことかもしれません。

ですがもし仮に、自分が信じて送り出(RT)したツイートが嘘だと明らかになることがあったとしたら。その時は、のんきに「良かった。××の〇〇はいないんだ。」なんて言ってないで、誤情報・偽情報をうかつに拡散してしまった自覚を持ち、きっちり反省と後悔をするぐらいのけじめは必要になるだろうと思います。

まあ、嘘が嘘だと確定するケースの少なさこそが最大の問題なんですが……

*1:ツイッター体験談には、語り手本人やその周辺の人物が不当で理不尽な被害に遭った、という内容を含むものが多い

*2:大元はプロゴルファー、ロベルト・デ・ビセンゾのものとされるエピソードらしいが、現在の直接の参照先はCMの方だろうと思われるので、そちらを前提に話を進める

*3:厳密に言えば、詐欺罪は非親告罪らしいので起訴は可能ではある

*4:騙されたとしても完全に内心で留めるなら話は別だが、その場合にはそもそも騙されたこと自体が発覚しない